少人数のアットホームなところがいいのか。
もしくは大手の多人数のところがいいのか。
どんな予備校がいいのかなかなか難しいことではあるが、受験と言うことを考えてしまえば、結論としては多人数の中でもまれるのが一番ベストなことなのかなと思う。
自分のことを思い返しても、先生が云々と言うよりも影響が強かったのは同じ環境で競い合った友人達だったし、若い時はとにかく引きこもらずに視野を広げられる多難な環境に飛び込んでいくことが大事に思える。
4cm-4cm | アナログ
少人数のアットホームなところがいいのか。
もしくは大手の多人数のところがいいのか。
どんな予備校がいいのかなかなか難しいことではあるが、受験と言うことを考えてしまえば、結論としては多人数の中でもまれるのが一番ベストなことなのかなと思う。
自分のことを思い返しても、先生が云々と言うよりも影響が強かったのは同じ環境で競い合った友人達だったし、若い時はとにかく引きこもらずに視野を広げられる多難な環境に飛び込んでいくことが大事に思える。
先日、本屋で何気なくデザイン関係の本を眺めていた。
多くの能書き本が並ぶ中で新谷雅弘さんの『デザインにルールなんてない 〜Mac世代におくるレイアウト術』と言うタイトルの本が目に止まった。
「ルールなんてない」と言いのけたタイトルに興味は持ったが、実は内容はちら見しかしてない。
だから感想を書く知識も資格もないが、機会があれば読んでみたい本である。
さっと目を通して、デジタルデザイン世代に送るアナログデザインについてのことを語ってるのかな?と言う印象を持った。
一般的に、何事も「ルールなんてない」と言い放つことは大変なことである。
多くの人はルールを求め、それに従って生きようとする。それが一番無難な道であり、裏付けや根拠が安心感を与えてくれる。一種の宗教と同じようなものだ。
ルールから外れる、または外れようとすることはなかなか大変なことである。
「ルールがない」と言い放ったタイトルに共感したのは著者が様々なルールを熟知し、経験に基づいて導きだした結果の言葉だと感じられたからである。
浅はかな反逆精神や怠慢さから生まれた幼稚な「ルールはない」と言う言葉とは雲泥の差がある。
もちろん本当にルールを知らないところから新しいものが生まれてくることは多々あることだが、それは赤ちゃんの落書きと何ら変わらない。例えば赤ちゃんはうんこしても事後処理ができない。何も考えずにしたい時に所構わずうんちをする。これは赤ちゃんのルールでしかなく、大人の世界では通用しない。尻拭いをしてくれる人がいて、初めて通用するのである。ちゃんと尻拭いができる大人が、あえて所構わずうんちをするのとは訳が違う。
著者がアナログな手書きのデザイン原稿をいくつも掲載している所を見ると、デジタルデザインが陥り易い定型化にも警笛を鳴らしているようにも感じた。ただ特に押し付けがましいデザイン論を繰り広げてる訳でもなく、きっとそれも意図する所なのだろう。
個人的にはアナログを知ってこそ、デジタル面での可能性が引き出せると思っているアナログ信者なので著者の視点にはとても共感する所がある。
デジタルな機能性は人が「体を使って考えること」にまだまだ追いついてないのではなかろうか。
何故ならデジタルはアナログよりルールだらけであり、本来ルールから外れないように作られているからである。
「ちょっとしたこと」
これが、簡単なようで難しい。
体裁よい気配りは簡単だが、ちょっとした気配りとなると実際は大変だ。
何ごとでもそうだが、この「ちょっとしたこと」が大きな差になる。
デザインでも優れたデザインを見れば分かるように「ちょっとしたこと」で良し悪しが分かれることがある。
洋服を例に取っても奇抜なデザインより「ちょっとしたこと」を要求されるフォーマルなデザインの方が難しい。
しかし、そう言いながらも自分は洋服に関しては無頓着なのでどうでもいい。f^_^; むしろ裸でもいいのだが、捕まるので着てるレベルである。
イケメンも「ちょっとしたこと」で微妙なイケメンになってしまうように、「ちょっとしたこと」は人生を左右する位に大切なことなのである。
プロとアマチュアの差があるとするならば、この「ちょっとしたこと」ではあるまいか。
僕は表現方法を良く料理に例える。
素材選び、調理、味付け、盛り合わせ等、料理をするようになってますます様々な造形と共通することばかりだと実感する。
その中でも制約のある料理にはかなりのテクニックや発想力が要求される。
ただ好きな材料を使い何も制約がない中で作ることより、制約のある中で作る料理はとても大変だ。
例えば弁当。
限られた空間の弁当箱に納得のゆく料理を完成させるのは難しい。
時間的な制約もある。
使える素材や、調理方法にも制約がある。
さらに冷めても美味しく頂けるものでなくてはならない。
最近、僕にとって目から鱗状態のお弁当写真をいつも懇意にして頂いてる料理の達人から送って頂いた。
僕が作る弁当なんか竹輪はスボラな輪切り。
しかし料理の達人は全然違う。斜め、それも程よい大きさ。
ちょっとしたことだが、こんな風に切り方だけで料理は大きな差がでる。
造形全般に言えることだが、このちょっとしたことが達人との差になるのだ。
お話を聞くと、フライパンも一つで済むように調理する順番を考えると言う。確かに朝の忙しい時間にいかに手際良く調理を済ませるかも大きなポイントだ。
本当に料理は奥深い。
弁当は本当に難しい。
自転車の「補助輪」ってありますね。
子供達の買ったばかりの自転車に最初つける親御さんも多いかと思いますが、あれって実は自転車に乗ってる気持ちにはなれても一向に乗れるようにならないんですよね。
むしろ都会ではかえって転倒しやすく、危険な代物にも思えます。
僕の持論で言うと自転車に乗れるようになるには、「補助輪」はつけないことです。
実際、我が家の子供達は補助輪を使わず、2、3時間河原に連れて行っただけで乗れるようになりました。
全く乗れない子供達にとりあえず両足をつかせて前に進ませていれば、子供ってすごいです。2時間もすればバランスを取れるようになり、すぐに自分でこぎだします。
これが補助輪をつけてると、そうはいきません。いつまでたっても自分でバランスは取ろとはしませんから、乗れるようになるはずありませんね。
自転車に乗るのに、まず大事なことはバランスを取ることで、補助輪をつけていくらハンドルを切ることだけを覚えても自転車に乗れるようにならないんですね。
iPhone用のアプリ「Body」でも同じようなことが言えます。このアプリは説明にも書きましたが、元々は身の回りに目を向けてデザインソースを探すアプリです。
本来はこのアプリを使わなくても自分の目で観察し、探せばいいのですがなかかなそんな視点で常にものを見るなんて難しいですよね。ましてや一般の人では尚更だと思います。
このアプリはあくまでもそんな視点をもつきっかけになればいいと思い作ったので、実際の洋服と直接的に結びつくものではありません。
むしろ場合によってはイメージや表現の幅を狭めてしまう場合もあるかも知れません。
何かの動機付けには補助輪もいいと思うのですが、最終的にやはり補助輪には頼らないことが大切だと思います。
デッサン等でよく使われる言葉で「ハッチング」と言うものがある。
多くは、比較的方向性が揃った線を重ねる描画方法を指すが、表現方法により多様なバリエーションがある。
特に線材的な性質の強い鉛筆やペン等で描写する時は効果的なことが多い。
油絵やテンペラ画等にも多く見受けられ、銅版画にも多く用いられてきた。これはニードルなどで金属等に傷をつけて作る為に色面や陰影の濃淡を作ろうとするとインクを溝の中に浸透させなければならない関係から、どうしても線を重ねることになってしまうこととも関係しているのだろう。
銅版画には色面や陰影を作るのにはアクアチント等の方法もあるが、表現内容としては方向性が大きく異なる。
また立体的な形状を強く意識する彫刻家等のデッサンにはこのハッチングが多く見受けられ、線の方向性も単なる色の階調を作り出すパターンとしてではなく、形に沿った線の方向性を持っていることが多い。
紙幣に見られる肖像画の図案も版画技術関係しているのは明白だが、現在の紙幣はデジタル技術が使用されている為、紙幣の中のハッチングは技術的な制約ではなく、偽造防止の為に利用されていると考えられる。
「Body」は機能的には単純なカメラアプリですが、
自分の考えたイメージをただ洋服の形にする為のアプリではありません。
アイデアを服のイメージにしたいだけなら、このアプリをわざわざ使う必要もなく画像加工ソフトでレタッチしたほうが良いです。
このアプリは、普段の生活の中から手軽に予想しなかったような発見をする為のツールとして作りました。
何事でもそうですが予想したままの形や結果になっても全然面白味がなくありませんか?。
でも適当に手当たり次第に撮影してゆくと
中には
「お、これ、面白いじゃない。」
と、言うような胸ときめくような偶然の結果を生み出してくれるものがあるんですね。
計画するより、まず適当に撮影してみよう。
このアプリは、そんな使い方がオススメです。。
日常生活の中の風景からはデザインのアイデアとなるイメージを沢山見つけることができます。
しかし、普段からそんな造形的な視点で周りをを見ることはなかなか難しいのが現実です。
画家が風景を切り取るように、スケッチするように「Body」のフレームを通してそれらを撮影、収集することで、服のデザインのイメージソースを生活の中から気軽に集めてみようと言う発想から作りました。
かなり久しぶりの更新です。
最近、iPhone用のアプリを作ってたのですが、最後になって
ボタン音をどうしようか、、
と言うことになり、僕は普段音は消しているのでボタン音はどうでも良かったのですが一応何か入れようかなと、、。
うーーん、困った。
口でプルプル言ってみたり、この際だからおならの音でもいいかなとパソコンにお尻を近づけてみたりしたのですが、結局アプリの画面がメタルぽいので金属音にすることに。
さて、金属音と言ってもどうするべきか、、。
とりあえず台所に行って音の出そうなものを持って来る。適当に目についたものを選んだらこの二つになってしまっただけで、深い意味はありません。
チン、とかカン、とかカチカチと適当に音を出して録音。
なんだか安っぽい気持ち悪い音になってしまったが、捉えようによってはオリジナルな感じでいいかも知れない。こんな気持ち悪くて安っぽいボタン音はめったにないだろうし。
と、これに決定。
でも不思議と気持ち悪い音ってつい聞きたくなるみたいで、むしろ音を出すようになりました。
まさかこんなもので音を作ってたなんて普通は思わないでしょうね。笑
口紅や化粧品で絵を描くことは特に珍しいことではない。
化粧品に使われている油と水を溶け込ませる「乳化」技術は絵画技法においても参考になるし、役に立つものだ。
絵画にあえて化粧品を使う意味は、その独特の透明度や光沢などに魅力を感じるなど様々だろが、このNatalie Irishと言う人の場合は唇でキスをして絵を描く。
だから口紅と言う素材の選択はいたって自然だ。
それにしても絵を一枚描きあげる度に唇が肥大しそうである。
ちなみに、これが野郎がやってたら気持ち悪いだけに感じてしまうのは偏見だろうか。
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